【竜の華咲くる闇】(仮)序章  2007,2,11完成 「気に入った。―――お前、名は」 「……蘭、と申します―――」 目の前に立つのは線の細い麗しき少女。 艶のある黒い髪を腰まで伸ばし、きちんと一つにまとめている。 白い着物に、赤い袴。 そして――― そして、鈍く煌く闇色の瞳。 妖――― ああ。 それでも良い。 こんな、ヒトで在るよりは。 いっそ―――… 「…今、何と仰いまして?」 本当は、しっかりと聞こえていた。 その意味も解していた。 けれど、無意味と分かっていても、どうしてももう一度問い返さずにはいられなかった。 「だから…」 相手は、先ほど発した言葉を、二度目は発しづらいようで口ごもったままだ。 こちらから誘導する謂れもないので黙ったまま相手をただ見つめていると、 非常に言いづらそうに、もう一度、仕方なくといった風に口を開いた。 仕方なく聞いてやっているのはこちらだというのに。 相手は、小さな声で、先ほどの言葉を繰り返した。 ************************ その日はとても良い天気だった。 格子を開けてみると、空はどこまでも澄み切っていて晴れやかで、 心までも澄み通るようなすがすがしさを感じる。 大きく息を吸い込むと、ひんやりとした空気が肺に心地よい。 格子を大きく外へ開くと、さっと光が部屋の中へ入り込んだ。 そこかしこに、鳥のさえずりが聞こえる。 はしたないと思いつつも、腕を大きく伸ばして背筋を伸ばしてみると、 気持ちまでもが伸びやかになっていく気がした。 「ふふ…良い天気だこと。ねえ?」 呼びかけるが応答はない。 部屋に光が差し込んだことで、その奥では陰影を濃くしていた。 一人が、扉に寄りかかるようにして座り込んでいるように見える。 身なりから、そこそこに裕福な家の男に見えた。 その奥で、華やかな着物に身を包んだ女が横になっている。 身に着けた着物のあでやかさから、まだ年若いのであろうと予想できる。 そして、そのまた奥の一室には、中年の男女が折り重なるようにして横に―――倒れている。 「イヤだわ…みんな、こんなに良いお天気なのに。  こちらに来て、陽に当たりましょうよ。気持ちが良いわよ」 再度声をかけるが、やはり応答はない。 室内はしんと静まり返り、こそりとも物音を立てようとしない。 戸に寄りかかるようにして座り込んでいる男の着物は、 鮮やかな緋色をしていた―――否、緋色に染まっているのだ。 その奥に倒れている女の着物も、そのまた奥に倒れている一組の男女の着物も、 よく見ると、緋色に染まっているのが分かる。 入り込んだ風に、ぷんと鉄のさびた嫌なにおいが乗って伝わった。 「いやだ、酷い臭いだわ。落とさなくては」 眉根を寄せて手をこすると、掌が真っ赤に染まっているのが見えた。 「あら…染料を落としたかしら」 ごしごしこすればこするほどに、掌はどんどん紅に染まっていく。 「父上、母上。家中が酷い臭いですわよ。掃除をした方が良いわ。  ねえあなた、そんなところで座り込んでいては邪魔よ。  早く妹のところへいっておやりなさいよ…」 ぐらり、と肩を揺らすと、声をかけられた男はそのまま―――床に沈んだ。 その胸元から腹にかけて、真っ赤に染まっている。 「イヤだ。行儀の悪い事」 女は、床に横に―――倒れている、年若い女を冷たく一瞥する。 「私の妹のクセに、こんな婿殿を選ぶだなんて…我が家の恥だわ」 物言わぬ若い女―――妹と呼んだそれを、足で転がすと、女は鼻で笑った。 「父上も母上も、おまえも…こんな男に騙されるところだったわねえ」 いっそ晴れやかな笑顔でそう告げると、女は急に汚れた着物が気になった。 自分のみにつけた着物のあちこちに、大きな赤いシミが出来てしまっている。 それに、酷い臭いがした。 着替えるために、女は自分の部屋へ向かった。 「これはこれは。驚いた」 涼やかな、それでいて可憐な少女の声が聞こえたのは、その時だった。 ************************ 「…いま、なんと仰って?」 「だから…」 男は、言いにくそうに一度言葉をつまらせた。 そして、思い切ったように真っ直ぐにこちらを見やる。 「あなたには本当にすまないと思っている…。けれど、自分の気持ちを誤魔化す事は出来ない」 「…」 「僕は、…あなたの妹を、…あなたより愛してしまったんです」 裏切り者、そう叫んで泣きつくことは出来なかった。 感情に突き動かされる事は、女の矜持が邪魔をした。 女とは、そうあるべきだ。 親にそう言い聞かせられて生きてきた。 物静かで、ある程度の教養を身につけ、歌を嗜み、楽器を弾き、 季節に相応しい着物を身につけ、香を楽しむ。 女が取るべき道はそれだけで十分だと常日頃言われ続けてきた。 婿となる男の恥にすらならなければ良い。 それ以上の事は何も望まれていなかった。 5年前までは違った。 あの時は、確かに、自分はこの家庭の中心に居たというのに――― ************************ 「入内!?」 一つの言葉が、特別裕福でもない、中流の地味な家に嵐を吹き込んだ。 「そうなのよ。帝がね、お前を是非に、と!」 「ただ入内といっても現帝のお相手ではなく、二番目の皇子のお相手に考えてくださっているのだ」 「そんな…私には、過ぎたお話ですわ」 右大臣である某氏の開いた宴に、父親がどうにか娘を参加させて欲しい、と周りに売り込んだ。 その結果、その宴にたまたま顔を出した帝のすぐ下で働いている者の目に止まったのだという。 「お前は13、帝の次男はまだ10を過ぎたばかりだが、年の頃はちょうど良い」 「でも、父上」 「口答えは許さんぞ。嫁いで、そして必ず、男児を産むんだ」 その日から、少女の運命は変わった。 男児を産めていれば問題はなかったのだ。 けれど。 「もう3年にもなるのに…」 男児を産むどころか、一向に懐妊の兆しは訪れなかった。 それでも、双方まだ年若いのだから焦る事はない、と父も母も笑っていた。 それが、もう3年経つと明らかに侮蔑の色が混じってきた。 その頃にはもう19。 お相手としては年が行き過ぎており、皇子もだんだんと足が遠のいていく。 そしてやがて、ぱったりと通わなくなっていた。 そうこうしているうちに、先月迎え入れた若い女が懐妊、男児を出産したのである。 少女は、女になり。 そして、やがて、居場所を失った。 出戻ってきた女に、親は冷たかった。 父親は元々野心家ではあったものの、自分の才を上手く使いこなせる器を持っていなかった。 そして、それを自らの力量とは認めず、絶えず人のせいにしているような男だった。 母親は落ちぶれた家の出だった。 けれど、その祖父の代までは栄華を誇っていたとして、 いつまでもその華やかさに縋り付いているような女だった。 そして、家には妹も居た。 器量はそうでもないが、明るく快活で、何でも笑って済ませるような性格だった。 ずるいと思いながらも、女は、そんな妹を愛していた。 妹も、姉の境遇に同情を寄せながら、私はいつまでも味方よ、と、 冷たく当たる両親の矢面に立ち、姉をけなげに庇いもしていた。 世間ではいき遅れだと笑われがちな年齢で一人身でありながらも、 男に縛られるのはこりごり!と笑って話していた。 そんな妹の笑顔に救われつつ、やがて、女の下にある男が通い始める。 年齢の事も、出戻りのことも、何一つ気にしない、と男は言ってくれた。 ただ、漏れ聞こえる歌声や、琴の音に惹かれて、そして、格子の向こうに 垣間見えた美しさが忘れられなくて、と、照れながら愛を語ってくれた。 両親は相手の男の身分が気に入らず、相変わらず冷たい態度をとっていたけれど、 女には十分幸せだった。 妹が、笑顔で「良かった」と言ってくれるのが幸せだった。 そして、2年後。 妹が懐妊したのである。 相手は―――女に「歌声が忘れられなくて」と語っていた、 この人しか居ないと思っていた―――恋人だった。 ************************ 妹は、涙ながらに女に詫びた。 姉の下に通ってくるこの男を本気で好きになってしまったと。 男は詫びた。 毎日会っているうちに、その笑顔に隠された寂しさに惹かれてしまったと。 そして二人は、互いに愛し合ってしまったのだと。 女の前で頭を下げて許しを請う二人に、両親は同情を寄せた。 そして、女に、許すように進言した。 女は、二人を祝福するしか許されなかった。 女が許すと、二人と、そして両親は手を取り合って喜び合った。 早速、その男を婿として迎え入れ、正式に祝言の日取りも決めなければと張り切った。 生まれ来る新しい命に、名前を考えなければ、と、父親が言った。 その瞬間、女は―――蘭は、自らの内に別の自分が生まれ来るのを感じたのだ。 そして。 「これはこれは。驚いた」 闇色の気配を纏わせながらも、その少女には涼やかな気高さを感じた。 蘭は、自分でも気づかぬうちに膝を突きこうべを垂れている。 「男には胸から腹にかけて、背中も数十箇所」 少女は、横たわる男を目には見えない力でごろりと仰向かせる。 恐怖と痛みで恐ろしい形相をした眼差しが、じろりと蘭を睨んだ気もしたが、 蘭は微動だにもしなかった。 「奥の男と女は、親だな。こちらも、背中と腹を数箇所」 かつて、両親と呼んでいたものがやはりこちらをじろりと見やる。 だが、蘭は涼しい顔をしてそれを受け止めた。 「この女は―――腹にやや子がいたのか」 その瞬間だけ、小さく蘭に変化が起きたのを少女は見逃さなかった。 見逃しはしなかったが、あえて触れようともしない。 「ふふ。見りゃれ。男児だ」 少女は可憐に微笑むと、手につかんだものを蘭に放って見せた。 びちゃり、と嫌な音が耳朶をくすぐる。 赤黒い塊が蘭の目の前に落ちた。 何かが胃を競り上がってくるのを感じたが、それでも蘭はただ黙ってそれを見つめていた。 少女はじっと蘭を見つめ、やがて、花の様な笑顔を見せる。 「気に入った。―――お前、名は」 「……蘭、と申します―――」 「蘭。今この瞬間から、わたくしのためだけに在れ」 厳然たる響きを持つその命に。 蘭は、深く、深く、こうべを垂れた。 ≪終わり≫