…と、言うわけで。 クロだって一応、ちゃんと式神らしいことやってんだぜ、というお話(笑)。 【蜘蛛の糸】 【1】 ―――見ツケタ ―――見ツケタ… 「…ん…」 まだ朝日の昇らぬ明け方近く。 何となく息苦しさを感じて、ふと、目を覚ました。 まだ意識は白濁とし、目を開いてみても、ぼんやりとしか映らない。 一瞬、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえてきた気がして、 ごしごしと目をこすり、大きく身体の向きを変えた。 「………!!!」 「それ」は、寝返りを打った視線のちょうど直線上に存在していた。 部屋の隅にいた、それ。 闇の中だというのに、妙に視界が冴えてきた。 節のある足は太く長く、びっしりと毛が生えて事までわかる。 いくつも連なる大きな赤い目が、きょろりとこちらを見た、その瞬間。 まだ明け方前だという事をすっかり忘れたように、 彼女の式神である黒い妖の名を、屋敷中に響き渡らせた。 「…で?」 目の前に踏ん反り返って胡坐をかく青年の口から零れた声には、 やや呆れたような口調が混ざっているような気がするのは、決して聞き間違いではない。 その青年の風体は些か妙な具合だった。 艶のない黒い髪を腰よりも長く伸ばしており、 肩の下辺りで無造作に緩く括っているだけで済ませている。 着物の袖や裾から覗く肌はなんと褐色で、ぼんやりとした蝋燭の明かりが灯る中、 するりと闇に溶け込んでしまいそうな印象を持った姿だ。 褐色の肌、というだけでもあり得ない事なのだが、 更に良く見ればその長い指の先には鋭く伸びた爪が、口元からは牙が覗いている。 あくまでも顔立ちだけを見れば、非常に端整であり、その爪と牙が不似合いにも思える。 優しい微笑でも浮かべれば、柔らかで甘い印象を与えるであろうその顔貌は、 だが、その青年の明るい虹彩の瞳によってヒトならざる事を見せ付ける。 その正体は、かつて「漆黒の王」とも呼ばれたほどの強大な力を持つ高位の妖である。 蝋燭にゆらりと照らされて、その瞳は金の輝きを見せた。 対して、布団の中で膝を抱えている少女は。 さらさらとした癖のない美しい黒い髪を普段はうなじで一つに括り、 今は就寝の際に邪魔にならぬよう、さらりと下ろしている。 真っ白の単衣に身を包んで震わせているその身体はあくまでも細く華奢な作りをしており、 ともすれば簡単に折れてしまうのではないかと思えるほどの頼りなさだ。 形の良い眉の下で長く濃い睫を濡らして、大きな瞳を伏せている様子はいかにも切なげで、 白い肌、うっすらと染まる頬、ぎゅっと結ばれた桜色の唇、 整った顎から伸びるのは細い首、そして身体を支える細い四肢。 普通よりも色彩の明るい、赤くも見える瞳を今は涙でいっぱいにして、 必死で訴えようとしている姿は、赤の他人が見ても 思わず抱きしめてやりたいと思えるほどに、実に可憐である。 少女の名は、花守綾。 春を司る佐保姫が末裔花守一族の、今は唯一の生き残りとも言えた。 「だ、だから…っ、こ、こんな大きなのが…っ!!」 綾は、両手で「それ」の大きさを表そうとする。 「その、隅っこにいたんだろ。それで?」 「それで、って…! だ、だって、こんなに大きかったよ!?」 両手で何かを包み込むような仕草をしたあと、「それ」を思い出してしまい 綾は慌てて手のひらをぶんぶんと振り回す。 「体もすごく大きくて、なんか、藤の花みたいな、妙に綺麗な色で、  足もこんなに長くて太くて、目なんか赤くていっぱいあって…」 涙目で訥々と語っていく小さな少女を目の前にして、 ふんふんと適当に相槌を打ちながら、青年は大あくびを漏らした。 「…ヤケに良く覚えてるじゃねえか」 「だ、だって…!!」 綾だとて、好きで凝視してしまったわけではない。 恐ろしさのあまり、視線を外せなくなってしまっただけである。 「み、見たくて見てたわけじゃないもん…っ!」 ついに、ぽろりと涙を零した少女に向かって、青年は、深々と溜息をついた。 「だからってなぁ…」 そして大きく息を吸い込んだ。 「たかが蜘蛛が一匹居たぐらいでこんな時間に  大声で呼ぶンじゃねえよ紛らわしい上に非常に迷惑だっ!」 一理ある。 「たかがじゃないっ、ものすごーく大きな蜘蛛だったっ!!」 「ものすごかろーがなんだろうが、蜘蛛は蜘蛛だろ!!」 「何よっ! クロは私の式なんだから呼ばれたら素直に来てよ!」 「だからこうして朝も明けてねえのに起きてきてやっただろうが、っていうかクロって呼ぶな!」 「嘘っ!! 呼んでからすっごく待った!!」 「昨日だって戦いで力使ってんだぞ!? んなすぐ起きれるかっ!」 「寝起きの悪い妖なんて聞いた事ないっ!」 「あー悪かったな、俺は例外なんだ」 「だいたいなんで妖のくせに寝ちゃってるわけ!?」 「妖は寝ないと思ったら大間違いなんだよ、こっちだって睡眠で体力快復させてんだからなっ」 「じゃあ夜は寝ずの番して! 昼間だったら寝ても良いから!」 「鬼かテメエは!!」 …論点がずれている。 「背中にも大きな目みたいな模様があって、  それもこっちを見てた気がして、本当に気持ち悪かったんだからっ!!」 「あーハイハイ」 「えっ、何処に行くの!?」 「もう一回寝直すんだよ、どっかの誰かさんに貴重な睡眠時間を奪われたからな」 「〜〜〜もうっ、クロのバカ!!」 綾の投げた枕がぼすんと音を立てて、青年が姿を消した壁に当たって落ちた。 ―――――――― 【2】 その日の昼時。 結局あれから二度寝をしてしまい、朝食に起きられなかった綾は、 今から遅い朝食、兼昼食である。 そんな綾の傍にはいつもならば、傍らに背の高い黒い青年か、 その青年が姿を変えた大きな真っ黒い犬が寄り添っているはずなのだが、 どういうわけか今日はその姿がなかった。 「あれ? 姫さま、戒さまは? いらっしゃらないんですか?」 『戒』というのは、黒い青年の呼び名である。 本来ならばそれが真名であり、位の高い妖や、力ある術師などは 真名を呼ばれることを嫌うのだが、戒にとって陽炎は敵にはならないために 平気で真名を呼ぶことを許していた。 戒は、妖の中でも相当に位の高い部類に位置しているため、 力を持たない人間は、障害にはなりえないのである。 ちなみに、綾の呼ぶ「クロ」というのも、「戒」にとって呼び名に当たる。 黒い妖は、自らを表すこの「戒」という名を酷く嫌っていた。 だから綾は、「黒耀」という、もう一つの名をこの妖に与えたのである。 だが、普段は「黒耀」とは呼ばずに「クロ」と呼ぶため、 黒い青年はいちいちそれに対して反発を見せているというのが現状であった。 ここからはややこしいので、黒い青年の事は「黒耀」と記載していく。 「あんなヤツ知らない」 「あはは…姫さまってば…」 実は、夜明け前の綾の叫びによって叩き起こされたのは、何もあの青年だけではなかった。 屋敷中に響き渡った悲鳴のような声で、この屋敷で寝泊りしていたこの少女、 陽炎や、その妹朧も、びっくりして飛び起きたのである。 したがって、陽炎も朧も二人のやり取りは聞こえていたし、 更にはこの姉妹も二度寝をし、中途半端に目覚めた、という状態でもあった。 陽炎も朧も、もちろん蜘蛛は好きではないが、 綾のそれはいくらなんでも大げさすぎる、と、内心では この姫さまにも可愛らしい所がおありになる、などとくすくす笑っていたりしたものである。 ―――――――― 黒耀はかなりの勢いでへそを曲げたのか、 蜘蛛如きで呼び出されるのは敵わないと言い残し、 ここ最近ずっと綾の傍には姿を現さなかった。 綾も、一晩たってみて、蜘蛛嫌いだからとはいえ、 確かに青年を必要以上に驚かせたことは事実であり、 迷惑をかけたので、黒耀はまだ怒っているからなのだと思っており、 その事については別に何の不思議も抱いてはいなかった。 妖に襲われることもなく、ゆずりはの屋敷の周りに張られた結界に守られ、 綾たちは穏やかな日々を過ごしていたのである。 ―――――――― 【3】 綾が蜘蛛の存在に気づいてから十日ほどが経った。 だが実は、最初に蜘蛛を見たあの日から、毎日決まって 朝方近くになると、息苦しさを感じて目を覚ます。 すると、いつも同じ位置に、例の蜘蛛がじっと綾を見ているのだ。 黒耀に散々怒られたせいもあって、蜘蛛が大の苦手とはいえ、 その恐怖にじっと一人で堪えてはいるのだが、こう毎日続くのではさすがに気味が悪い。 毎日変な時間に目が覚める事で、寝不足も続いていた。 やけに疲れが溜まっている気がする。 黒耀はあれきり戻ってこない。 迷いに迷って、結局陽炎に相談し、その日から共に寝てもらうことにした。 ―――――――― 「あれ? そういえば戒さま、まだいらっしゃらないんですか?」 「あ、ううん。戻っては来たんだけど」 陽炎に添い寝を頼んだ日に、いなくなったときと同じように突然戻ってきて、 「寝る」と言ったきり、ここ三日ほどずっと目を覚まさないままなのだ。 「ずっと寝てるんですかぁ?」 「うん」 「良いですねえ、呑気で…」 「…うん」 だが、綾は気づいていた。 黒耀がそうしてまとめて睡眠を取る時は、必ず、その前に大きな力を使っているのだと。 失った力を取り戻すために、長時間の休みを必要としているのだと。 だが、三日以上も目を覚まさなかったのは初めてだった。 「…何をしたのかな」 「え?」 なんでもない、と小さく呟いて、綾は布団を被った。 「おやすみなさい、姫さま」 「うん、おやすみなさい」 綾は、ここ三日ほどで恒例となった直ぐ隣に眠る年上の 少女の寝息を聞きながら、ゆっくりと眠りについた。 だがやはり、明け方になると苦しくなって目が覚める。 そして、じっと蜘蛛の視線に耐える事には、変わりなかった。 しかし、綾は以前とは違って、その視線を逸らす事が出来た。 黒耀が隣の部屋にいる。 その事だけで、何となく自然と綾の中に安心感が生まれ、 以前ほどの息苦しさは感じなくなってきていたからである。 ぎゅっと目を閉じると、視界は闇で覆われる。 だが綾には、その漆黒の闇が怖ろしいとは思えなかった。 ―――――――― 【4】 5日が過ぎても黒耀が目を覚ますことは無かった。 さすがに不安になって、時折確かめに行くのだが、 その都度、穏やかに小さく寝息を繰り返しているのを見て、少しだけ安心する。 綾は、この5日間、何度もそれを繰り返していた。 だが、こうして何日も何日も目覚めないのは今までに無かった事で、 今まではどんなに戦いがつらくても、2日ほど寝れば快復する、と言って、 実際に、2日ほどの睡眠で必ず目を覚ましていた。 目覚めない青年を見つめていると、どうしようもない不安が込み上げてくる。 「…どうしちゃったの? クロ…」 布団の中で長い手足を丸めて、小さくなって眠っている青年の 端整な顔を覆う長い前髪を、そっと指で梳いてみる。 布団から少しだけはみ出した手に触れると、ちゃんと温かい。 しばらくずっとその寝顔を見つめていたが、長い睫に閉ざされたその瞳は ピクリとも動く事はなく、ただ、静かに寝息を繰り返すだけだった。 突如、扉が開けられて、さっと明るい日が入り込むが、 それに対しても全く反応を示さない。 「姫さま、やっぱりここにいらしたんですか!」 「うん…」 どうせ起きないのだろう、と全く遠慮せずに声を出す陽炎に 少し日の光を浴びた方が良いと外に追い出され、 綾は、所在無げに屋敷の周りをぷらぷらと散歩でもすることにした。 「…あの…」 「え?」 屋敷の門の付近を歩いていた綾の耳に、密やかな囁きが聞こえ、 声のした方を振り向くと、大きな目をした可愛らしい少年が立っていた。 だが、その身なりはボロボロで、まるで何日も旅をしてきたかのような風体で その可愛らしい顔もかなり薄汚れてしまっている。 ぜいぜいと肩で息を繰り返し、よろよろと綾に近づいて、縋るような視線を向けた。 「こちらは、ゆずりはさまのお屋敷でしょうか…」 「あ、そうだけど」 「ああ…! 良かった…!」 少年はやっとそれだけを言うと、くたりとその場に倒れこんでしまう。 「ちょ…っ、ど、どうしたの!?」 思わず綾は少年に手を貸すが、怖ろしいほどに細く軽い体だった。 「あ、す、すみません…」 真っ青な顔色で、少年は何日も食べ物を口にしていないのだと告げる。 ちょうどそこにこの屋敷で働く、春の一族の少女、朧が現れ、 二人で少年に肩を貸して、どうにか厨房の隣の部屋まで連れてくる事が出来た。 朧は、二人のために温かいお茶を淹れ、更に、少年のために御粥を用意する。 それを二口、三口、とゆっくり口にし、時間をかけてすっかり平らげたあと、 少年は、ようやく生気を取り戻した。 「…僕は…ゆずりはさまを探して、ここまで旅をしてきたんです」 御粥を恥ずかしそうにおかわりし、それをまたゆっくりと空にすると、 少年は、ぽつり、と事情を話し始めた。 「僕の村はとても貧しくて…、でも、みんな家族のように親しくて、とても幸せだったんです。  それが、疫病が流行ってしまって…。お医者様にも来てもらって、診てもらったんですけど…  原因が分からないって言われてしまって。  …そのお医者様が言うには、妖の仕業じゃないかって」 「妖の?」 少年は頼りなく、こくりと頷いた。 「僕にも、良く分からないんですけど…。妖は、人の精気を奪うって。  僕の村は、そういう妖に狙われたんじゃないかって…」 「…村ごと、なんて話、聞いた事ないですけど…」 「…僕は、しばらく奉公で少し離れた庄屋様のお屋敷にいて、無事だったんだけど、  妹たちが、次々に倒れて、…一番下の妹は、とうとう、……っ」 少年はそこまで言うと、大きな瞳を伏せてぼろぼろと涙を零した。 綾と朧は何も言えなくなってしまい、綾は、そっと少年の背をさする。 「…どうして、ゆずりはさまを探していたんだ?」 「ゆずりはさまは、すごい巫女様なんだって…だからきっと、妖を退治して下さると思って…」 「…そっか…」 ここは確かに、かつて強大な力を有した巫女、ゆずりはの所有する屋敷であった。 だが、間の悪い事にゆずりはは今、この屋敷にはいなかった。 所用が出来たとかで、遠くまで出かけているのである。 予定では、戻るのは少なくともひと月は先であった。 「…困ったな…」 「姫さま、とにかく、今夜はここに泊まってもらって…  明日、白茅さんと錦木さんを呼んで、相談したらどうでしょう」 「あ、そうか、うん。それが良いかも」 「ありがとうございます…! でも、僕、お屋敷の中では、泊まれないです」 「えっ、どうして?」 「僕も…妖に呪われてるかもしれないから。あの…迷惑、かけられませんし。  お屋敷の、外で…どこかで、休みます。ここまでの旅で、野宿には慣れてるし」 「でも、こんなに弱ってるのに、外でなんて…」 確かに、黒耀は目覚めず、ゆずりはもいない今、 他所の妖に関わるような、余計な事は避けなければいけなかった。 しかし、自分よりも年下であろう、か弱げな少年を野宿させるのは、 いくらなんでも非人道的な気がして、躊躇われる。 「じゃあ、はなれで、どうでしょう」 そんな綾の気持ちを察した朧が、助け舟を出す。 ゆずりはの屋敷はかなりの広さがあるので、はなれなら、本館からかなりの距離があった。 朧はてきぱきと寝床の仕度をし、陽炎に事の次第を告げた。 陽炎は早速、秋の一族の二人、白茅と錦木へ連絡を取り、 二、三日後には二人にこの屋敷へ来てもらえるよう、手配した。 ―――――――― その日、いつものように陽炎と共に眠りに着いた綾は、 いつもとは違う居心地の悪さを感じて、とうとう目を覚ました。 例の、いつも目覚める朝方の直前ではなく、まだ本当の真夜中だ。 「―――!!!!」 たかが蜘蛛一匹が現れたくらいで、呼ぶな、と言われた。 だから、今まではじっと嫌悪感と恐怖に耐えてきた。 だが、今、綾の目の前に現れたのは、たかが蜘蛛一匹、ではなかった。 びっしりと、床や壁を埋め尽くすほどの蜘蛛が、真っ直ぐに綾を見ていたのである。 「あ、あ、あ」 何か言わなくては、そうだ、呪を唱えれば。 綾は、必死にそこまで思考をつなげたが、恐怖のあまり舌が引きつって、 上手く言葉が出てこない。 「うーん…どうしたんですか、姫さ…きゃあっ!?」 ぼんやりと目を覚ました陽炎が、目の前に広がった光景に飛び起きる。 じり、っと綾が身を引いたその瞬間、一斉に蜘蛛がこちらに向かってきた。 「きゃぁあああああっっ!!」 陽炎の絶叫が響いたその瞬間、ばんっと扉が開かれ、 蜘蛛がその灯りを避けるようにさっと散った。 扉を蹴破るようにしてそこに立っていたのは、綾の黒い式神だった。 「―――クロっ!!」 「なんだこりゃ…」 足の踏み場も無いほどびっしりと部屋を埋め尽くしている蜘蛛を見て、 黒耀はげっそりと呟きを漏らす。 足元の蜘蛛を物ともせずに踏み潰しながら綾に歩み寄った。 踏み潰された蜘蛛は、まるで霞になったかのようにさらさらと消えていくのだが、 踏み潰す先からどんどん黒耀の足を伝って蜘蛛が這い上がってくる。 「…うざってぇな」 面倒臭そうに手で払いのけるが、数が数だけにそれくらいではキリが無い。 「や、やだっ、クロっ!!」 蜘蛛は黒耀だけではなく、綾や陽炎の方にまで迫っていた。 黒耀は面倒臭そうに一つ息をつくと、足元の蜘蛛を蹴散らしてずかずかと綾に近寄り、 ひょい、とその細い身体を持ち上げる。 綾を肩に担ぐと、部屋の一角を見据えた。 「失せろ!」 鋭く一喝すると、蜘蛛はぴたりと動きを止め、その言葉の意味を理解したかのように、 まさに散らすように部屋の四隅へと姿を消した。 「よ、よ、よ、良かったぁ…」 「良くねえよ」 へなへなと腰を抜かす陽炎を、黒耀は冷たく一瞥する。 「一時、散らしただけだ。また現れるぜ…」 そこまで言うと、黒耀は何かに気づいたように抱えた綾に顔を寄せる。 まだ半分硬直している綾の腕や胸元に顔を寄せて、くんくんと匂いを嗅ぐような仕草をした。 「な、なにを」 するの、と綾が言いかけた瞬間、黒耀はバッと顔を上げる。 「誰か入れたのか」 「え?」 「誰か入れたか、と聞いてるんだよ」 「あ、は、はい、昼間、少年が尋ねてきて…」 「何処にいる」 「はなれに…って、戒さま!?」 そこまで聞くと黒耀は、突然綾を放り投げてはなれへと向かった。 ―――――――― 【5】 何かただならぬ気配を感じて、綾と陽炎は必死に黒耀の後を追いかける。 突如、外から劈くような高い悲鳴が聞こえてきた。 綾は慌てて外へ飛び出していく。 外へ出て、綾は自分の目を疑った。 昼間、ゆずりはを探してやってきた少年の身体が、宙に浮いている。 …否。 黒耀に掴み上げられているのだ。 「りょうさま…!! た、助けて!」 「!? 何やってるんだ!!」 「こ、この人が…僕を…っうぐっ」 少年に最後まで言わせず、少年の目の前に立ちはだかる黒い影は少年の首を片手で締め上げる。 少年の身体が更に宙に浮かび、ばたばたと足を動かすのだが、 青年の腕は決して力を緩めようとはしない。 「クロ!?」 「黙ってろ、小娘」 冷たい声音で綾を抑えると、黒い影…黒耀は、徐にその手に力を込めた。 ごきり、と鈍い音がして、少年の首がありえない方向に曲がる。 激しい抵抗を続けていた手足が、だらりと力を失った。 「―――ッ!!」 黒耀は、少年の身体から力が抜けても、なおもその力を緩めない。 「… め、て」 綾は、喉がからからに乾いていくのを感じていた。 ミシミシと嫌な音が聞こえてくる。 まさか、と思う気持ちと、これから起こるであろう事を冷静に 考えている自分とがせめぎ合い、綾はガンガンと頭が痛くなってきた。 「クロ、やめて」 渇ききった喉に唾液を飲み込んでかろうじて潤わせ、言葉を綴る。 だが、嫌な音は一向に鳴り止まず、青年の手の中でどんどんと強くなっていく。 「やめて、お願い」 青年は見向きもせず、締め付ける手に、更に力を込めた。 「黒耀やめてぇええぇえっ!!!」 べしゃ、と何か大きな果物がつぶれたような音が聞こえた。 どさりと重たい音を立てて地面に転がった、細い少年の身体には。 あるべき位置に、その、可愛らしい顔立ちが、頭部が、失われていた――― 「きゃあぁああぁぁあああ!!」 後ろの方で、陽炎と朧の悲鳴が聞こえた。 そこまででぷっつりと思考が途切れた。 ―――――――― 【6】 「…りょうさま」 優しい声で目を覚ますと、枕元に、穏やかな表情の女性が座って、こちらをそっと伺っていた。 「白茅さん…」 名を呼ぶと、女性はほっとしたようにふわりと微笑む。 見るものを安心させるような、優しい笑顔だ。 「大丈夫ですか?」 「うん…」 ゆっくりと身体を起こすと、少し離れた所か激しく叫ぶ声が聞こえてくる。 どうやら、陽炎が黒耀を問い詰めているようだった。 綾は、白茅の手を借りて、そちらの部屋に移動する。 綾が横になっていた場所の直ぐ隣には、まだ朧が意識を失ったままだった。 ―――――――― 「―――なんであんな酷い事を!?」 「…いちいち人間共に話さなきゃいけない理由はないね」 「そんな言い方―――!!」 「煩ぇなァ…」 気だるげに髪をかき上げるそのいい加減な態度に、陽炎は卓を激しく叩きつける。 「戒さま!! 真面目に答えて下さい!!」 金褐色の瞳が、ぎらりと陽炎を貫いた。 「アイツを殺せば力が手に入った。だから殺した。それが理由だ。他に何が必要だ?」 「…っ!!」 黒耀は低く抉るような声音で一気に言い募ると、再び視線を外に戻す。 恐怖のためか、一瞬呼吸を忘れた陽炎が肩で大きく息をした。 「で、でも、今までそんな事」 激しく黒耀を問い詰める陽炎の脇には、静かに錦木が座っている。 何かをいう気配はなかったが、その瞳には黒耀への警戒が見えた。 「忘れてるようだから思い出させてやるぜ。  俺は妖だ。妖は人の精を喰らって生きる。  ここに居るテメエらを喰うのは簡単だが、それはしないでやってるンだぜ?  だが、人間の精を喰らわずにいたらいつかは弱ってくる。  それを、他所の人間で補う事の何が悪い」 「そ、そういう事を言っているわけじゃなく…!」 「それとも何だ? 代わりに、お前を喰らえば良かったか」 「…!」 「勘違いしてるようだが、妖の力だって無尽蔵じゃない。  俺だって何処かで何かを補給しなきゃ、あっという間に消えちまうんだよ。  テメエら人間が動物を殺して食し、力にするのと同じで、  俺たち妖は人間を喰らう。ただそれだけの事だろうが」 ―――――――― 黒耀はそこまで言い放つと、 大きな音を立てて戸を閉めて出て行った。 陽炎は思わず、大きく息をついてしまう。 黒耀という存在が、ここまで圧迫感を 感じるものだったと思ったのはこれが初めてだった。 「…どうしちゃったんでしょう…戒さま……」 まるで人が変わってしまったかのような妖に、陽炎はどこか頼りなげに呟く。 今までも随分ゆずりはとやりあっている姿を見せていた黒耀だったが、 ここまで、まるで敵対するような姿勢を見せた事は今までに一度も無かったのだ。 その博識さで上の者にも一目置かれている錦木だが、 さすがに、その問いに対する答えは、持ち合わせていなかった。