【花】

暖かな光の中、肌寒い風が通り過ぎた。
山々は深く色づき、季節は秋から冬へと移り変わりつつある。


世は、都を中心として、大きく4つの里に分かれていた。


一つは、春を司る一族、佐保姫の末裔、花守一族が仕切る春の里。
もう一つは、その春の一族と勢力を二分する、秋の竜田姫の末裔、芙蓉一族の里。
そしてそれぞれに仕える、夏、冬の一族の里である。


ここは、春の里と夏の里に近い、都の外れだ。
春夏の里が近いために、もうじき冬になるというのに決してそれは刺すほどの寒さではない。
とはいっても、寒くないわけではないのだが。

「―――オイ、何してんだ。さっさと行くぞ」

じれったくなって声をかけてきたのは、白き美貌の持ち主。

ややつり上がり気味の大きなくっきりとした瞳に、長い睫。きりりと整った眉目。
少年にしては柔らかさを感じさせない細い顎に、薄い唇。
色の白い肌は、か弱さではなくその美しさを引き立てるものでしかない。

一見すると色彩の変わった普通の少年に見えない事も無かったが、
白銀とも呼べる冷たさを纏った髪や、瞳孔の長い金の瞳は、彼がヒトではない事を表している。
その外見は少年のように見えるが、実際には何百年もの時を経て生きていた。

白く柔らかい髪が風を受けてふわりと揺らめく。

吐く息は白いが、本人は全く寒さというものを感じてはいないようだった。
二の腕が覗く程度の長さしかない袖の
薄い色の丈の短い着物を羽織り、腰は帯で簡単にまとめている。
下穿きの上に、膝下から踝まで薄皮を巻き、手首も同じようにしている。
いくらそこまで寒くはないとはいえ、かなりの薄着である。
その肩には、小さな袋を背負っていた。


その視線の先には、茶色の頭が見える。
ちょこんと地面に座り込んで、何かを一心に見ているようであった。

「オイ」

聞こえなかったのかと、襟首を掴んで無理矢理立たせようと手を伸ばし
もう一度声をかけたとき、茶色の頭がくるりと振り返った。


白い少年よりもやや年少と思われる小さな少年である。

厚手で深く濃い色合いの、都風の着物に身を包み、
茶色の髪を頭のやや高い位置でひとくくりにし、
まるで、揺れる犬のしっぽのように垂らしている。
背丈は小さく、着物から覗く首筋や手足は細く、
同じ年頃の少年と比べてもかなり華奢であるように見えた。

決して目を瞠るほどとはいかないが、まるで少女のようにも見えるなかなか愛らしい顔立ちで、
気のせいか少し顔色が悪く見えるような肌の白さをしていたが、
柔らかそうな頬には血の色が上り、その大きな茶色の瞳は
まるでこぼれ落ちそうなほどで、澄んだ光を湛えている。
真っ直ぐに見つめる少年の大きな瞳に、白い美貌の姿が映っていた。

その襟元は、寒さ対策で厚手の布が巻かれていたのだが、
それでも吐く息は白く、指先や耳などが真っ赤になっていて何となく寒々しい。

「これ綺麗だよね」
「は?」
「これー」

小さな手が指差しているのは、小さな黄色い花だった。
紅葉していた木々の葉が落ち始め、視界からも寒さを感じる景色へと移り変わっていく中で、
その色彩はとても淡く繊細で、美しい。

「気に入ったならさっさと摘め。さっさと帰るぞ」
「えー。勝手に取ったらダメだよ。あそこのおうちの花かもしれないし」
「…はぁ…?」

明らかに野に咲く花なのだが、それでも一応見える範囲に民家があるのを指摘して、
再び何かを考え込む仕草を見せたこの少年―――名前は、桂という。


いかにも頼り無さそうな線の細いおもての少年だが、これでも夏の一族の一端の術師であり、
この少年の傍に佇む白き少年、今は隠しているが
その頭部には乳白色の美しい色彩の二本の角を持つ鬼の妖怪、
楠という名の高位の力を持つ妖(あやかし)の主なのである。

が、わけあってこの桂は、幼少の時代を楠によって育てられているため、
主従の関係はかなり危ういといっても良かった。
世間一般で言う妖怪との主従関係、つまり、妖怪を術師の式とする事は、
妖怪は何だかんだとその主に対して絶対的に服従している面があるのだが、
楠の場合はそれが当てはまらない。

それは色々と事情があるところなのだが、別の機会に説明する事にしよう。


通常であれば主である術師がその名を呼べば、どこにいようとも姿を現し
指示に従うのが式の務めであるはずなのだが、楠の場合は自分が行きたくないと感じたときは
桂がどんなにその名を呼んでも、絶対に姿を見せることをしなかった。
あくまでも気が向いた時にだけ傍に居るようだった。

今回は珍しく気が向いたようで、
都への買出しの使いを頼まれ金子の入った巾着を懐に大事そうに抱え、
一人でぽてぽてと都へ向かっていた桂の前に、何の前触れもなく現れた。

喜んで駆け寄る桂を足蹴にし(もちろんきっちりと加減はしている)、
何だかんだとてきぱき口出しをして買出しを終えさせ、
現在、桂が居住の場としている都の外れにある巫女の屋敷
(本来、桂の生活の場は、夏の里にある常磐木という高名な術師の屋敷であったのだが、
現在は、巫女ゆずりはの屋敷に居候中である。
これまた色々と事情があるのだが説明は省く事にする)への岐路についていた。

****************

話を戻すと、何を隠そう、桂のこの律儀さは楠の教育の賜物であるわけなのだが、
当の本人、楠はあからさまに呆れ顔になって桂を見やった。

「たかが花だろ」
「だって、毎日この花を見てるかもしれないよ。
 毎日これを見て、ああ、今日も咲いてるなって、思ってるかも。
 それが急になくなってたら、やっぱりがっかりすると思うんだ。
 でも、一輪くらいはいいかなぁ…」

こんな調子で全く煮え切らない桂を置いて
痺れを切らした楠が、その近くにあった民家に声をかけた。

実は、楠の姿は桂以外には見えないようにしているのだが、
突如姿を現し、里人の家をめがけてずんずんと歩いていった。

戸口に現れた里人は、目の前に立っていた
そのあまりの人間離れした楠の美貌に驚きはしたものの、
楠の口から「夏の術師」と言う言葉を聞くや否や、相好を崩した。

それぞれの四季の守部の麓の里では、術師の評判は高く、
大仰な事を言えば、大抵の事が「術師である」と言う事で許されてしまうのである。


術師の使いだと名乗り、自らの主が、道端に生えている花を所望なのだと告げると、
家主は笑顔で花を摘み取らせてくれた。
その上、小さな桂を見て、もっとたくさん食べなさい、
と、果物や野菜、動物の乳を山のように渡してきたのである。

「いっぱいもらっちゃったね」

当然桂では抱えきれず、大雑把に布袋につめて楠が背負っていたのだが、
その目の前で桂は大事そうに一輪の花を抱えて歩いていた。

「花なんかどーすんだ。何の足しにもならねーだろ」
「いーの! これは、お土産なの。姫巫女さまにあげるんだ」
「は〜…」

楠は珍しいものでも見たような表情になり、
ややしげしげと桂の顔を覗き込むと、少しからかうように声をかける。

「お前、ああいうのが好みか」
「このみ? うん、姫巫女さまのこと好きだよ」
「ふーん。お前もついに色恋に目覚めたのか」

きょとんと応える桂に、
あの黒い式は気にいらねえけど、と心で呟き、楠は少し感心したように桂を見つめた。
それに対し、桂はさらにきょとんとした顔で楠を見つめ返す。

「いろこい? それって、何色が濃いの?」
「…………。」

やっぱりそういうオチか、などと呟きながら、楠は桂を急かしてさっさと先を歩き出した。

****************

「楠はちゃんと地面から生えてるのが好きなんだもんね」
「は?」

唐突な話の変化についていけず、楠がその美麗な眉を吊り上げる。

「楠もほんとは綺麗なもの好きでしょ? でも自然のものが好きなんだよねっ。
 澄んだ川とかー、鬱蒼としてる緑とかー、
 朝靄がかかってる山とかー、いっぱい苔が生えてる大きな木とかー」

指折り、次々と自然の美しいと思われるものをあげていく。
それから思いついたように、手を打つ。もちろん、花を傷つけないように気をつけてだ。

「あと、おじーちゃんが張った結界をわざと破って入ってくるのとか好きだよね」

笑顔を浮かべて小走りに楠に近寄ると、じっと楠を見つめる。

「姫巫女さまの事も大好きだけど、一番は楠だからね!」
「へいへい」

何やら返事を返すのも面倒になって、
適当に相槌を返していると、隣で桂はぶつぶつと呟きだした。

「二番目がおじいちゃんで、あ、でも姫巫女さまも二番目…
 あ…陽炎も朧も好きだし…ゆずりはさまも…」

と、そこまで人物を並べたところで桂の言葉が途切れた。


実は、この愛らしい少年には、自らを好む相手というのはかなり少ない。
極少、と言っても良かった。
桂自身には、「嫌い」と言える関係の相手は
ほとんど存在していないに等しいのだが、周りはそう思ってくれないのだ。

それにも色々と事情があるわけなのだが、この桂自身に秘められた能力のこと、
常磐木という高名な術師に可愛がられている事がやっかみの要因の一つとなり、
それはもちろん、楠という強い式を持っている事も関係している。

色々とわけがあって、ほんの赤ん坊のころから周りの人間に煙たがられ、
その存在を無視し続けられてきたこの少年にとって、
現在居候中の巫女の屋敷は相当居心地が良いらしく、
そこに住む人間のほとんどを好きだという

(実は、桂が挙げた名前以外にもう一人、姫巫女の式もその屋敷に存在しているのだが、
桂にとってその式は「好き」になるべき存在ではないらしい。
桂の頭の中にその式の存在はほとんど無いも同然だった。
決してその式が、印象が薄いとか、力が弱いとか、
人前に姿を現さないという事ではないのだが、
無意識のうちに、桂はその式を別格の存在なのだと理解しているようでもあった

(更なる余談だが、楠も実はその式―――妖の間では「漆黒の王」とも呼ばれし
絶大な力を持つ高位の妖なのだ―――を意識しないようにしているようだった。
というよりも、単純に生理的に合わなかったのかもしれない。
何かの拍子に桂がその式の話題を出すと、楠は途端にその秀麗な顔を歪めるのだった))。

「は…は…はくちっくちっ」

突然、変な動物でも鳴いたかのようなくしゃみをした桂を見下ろし、楠は小さな溜息を付いた。
真冬並の寒さからまだまだ遠いとはいえ、風はひんやりと冷たさを含んでいる。
楠は暑さ寒さとはほぼ無縁の性質だが、
目の前の少年の細い首はいかにも寒さには弱そうに見える。

「おらっ、ちゃんと首に巻いとけ。垂らしてたら意味ねーだろ」
「うん〜」

桂は、小さな子どものように顎を上げて楠が布を巻きつけてくれるのを大人しく待っている
(両手が使えないためである)。
そんな風に握っていたら花が弱るだろうな、と思いつつ、
楠は大きな袋を担ぎながら、片手で器用に桂の襟元に防寒用の布をぐるぐるぐると巻いた。

「鼻も垂れてるぞ…」

呆れたように呟いて、ついでにその布で顔を拭ってやる。
口では何のかんのと言いつつ、楠は面倒見の良い式なのである。

されるがままになっていた桂は、真っ赤になった鼻を改めてすんすんと啜りながら、
邪気と呼ばれるものが裸足で逃げ出してしまいそうな笑顔で、にっこり楠を見つめた。

「えへ〜ありがと」
「ったく…これくらい自分でやれよな」
「うんー」

全く何も分かっていない様子で、桂はまたるんるんと歩き出した。

****************

屋敷へ戻ってすぐに姫巫女の部屋へ向かおうとした桂を放って、楠は屋敷の主の元へ向かう。
苛立った足取りを隠そうともしないまま、わざと音を立ててその主の前に姿を現した。

「こんなガキを、一人で都へやるなんてどうかしてるぜ」

実際、楠は苛立ちを覚えていた。
自分としてはこんなガキがどうなろうと知った事ではないのだが、
それでも自分が拾ってやった命が、あっさりと無駄に散る事だけは受け入れがたい。

桂は、実は一度命を落としているのだ。
それを危ういところで魂をつなぎとめる事が出来、
こうしてここでまた存在する事が出来ている。
それでも、その身体がまだ充分に健康であるとは言いがたい。
そんな人間を、たった一人で都へ使いにやろうと考えた冷血漢とも言えるこの屋敷の主に対し、
楠としては一言、何かを言わずにはいられなかった。

しかし楠を目の前にして、その人物はあっさりと言ってのけたのである。

「この屋敷じゃ、働かざる者食うべからずなんだよ。
 歩けるようになったんだから使いを頼んだところで何の問題がある?」

心のどこかで、コイツはそう言うに違いないと分かっていた楠だったが、
それでも一応の反撃を試みた。

「こんなでも一応、病み上がりだろうが」

目の前に立つのは、一見してやや小柄な老婆である。

けれどその正体は、その浄化の力を恐れられ、
妖の間で「そちらこそが妖怪ではないか」とまで言わしめた、
4つの四季の守部の一族の頂点に立つほどの凄腕の巫女、楪(ゆずりは)その人であった。

漆黒の王ですら、「あのババアを敵に回すと、ロクな事になりゃしねえ」とぼやくほど、
彼女の実力は決して侮れるものではなく、更に言えばその食えない性格も、
数百年を生きている妖たちに勝るとも劣らないほどの食えなさなのである。

妖とも同列というべきその老巫女は鼻で笑うと、目の前の白い美貌をちらりと見やった。

「どうせお前さんが一緒に行ったんだろう? じゃあ、何の問題もないね」

そう言いきり、さっさと姿を消してしまった。

確かに屋敷を出た時は桂は一人きりだったが、偶然にしろ必然にしろ、
この白い鬼が途中から同行するだろうことは予想の範疇だったのである。
この老婆は、あらゆる事に対して非常に如才の無い性格もしていた。

しばらくの間をおいて、自分の行動を読まれた(らしい)楠の、
痛烈な舌打ちが響いたのは言うまでもない。

************

「姫巫女さま、居るかなぁ」

そんな楠の心中もいざ知らず、桂はるんるんとした足取りのまま
目的の人物を探して屋敷の中をくまなく練り歩く。
個室はもちろん、普段良く姿を見かける部屋を見て回るのだが、
どうした事か今日はなかなか出会えなかった。

「あれ? 出かけちゃったのかな…」

がっくりと肩を落とした桂は、とぼとぼと元来た廊下を引き返す。

「桂? 戻ってたんだね」

軽やかで涼しげな声がして、
くるりと振り向いた桂の視線の先に、眼を惹く美しい少女が立っていた。

「あっ、姫巫女さま!」

艶やかな黒髪をうなじでひとくくりにして垂らし、簡素な着物を身につけているが、
すらりと伸びたその四肢は、少女らしい緩やかな線を描き、
健康的な白い肌に、形の良い頬は薔薇色に染まり、唇も薄紅色に色づいている。
中でも特に印象的な、光の加減で赤くも見えるその瞳で、ふわりとこちらを見つめていた。

「『姫巫女様』はやめてよ、桂。なんだか自分じゃないみたいだ」

姫巫女、と呼ばれたその少女は、長い睫を少し伏せて頬を染め、困ったように微笑みかけた。

「えー。じゃあ、りょうさま」
「うん、それなら」

綾は、春の一族の頂点に立つ「花守」のたった一人の継嗣である。
この屋敷には同じく春の一族の者である姉妹が生活を共にしていたが、
同じ「春の一族」でも、末端の一族と「花守」とでは、格が違う。
花守一族と同列の立場であるのは、秋の本家「芙蓉一族」、それもごく一部の術師のみ。

綾自身は、格式張った事を嫌い、「様」などいらないと常日頃から感じ、
この屋敷に住むその姉妹たちもその気持ちを嬉しく感じてはいたが、
何といってもその身分が違いすぎるため形式上という事でお互いに納得せざるを得なかった。


それは、春に追従する形で存在する夏の一族も、同じだった。
桂は四季の守部の生まれではないが、夏の老術師に拾われたため、
立場的には夏の一族の一人である。

その老術師は、夏では誰よりも敬意を払われるべき高名な存在ではあったが、
春の一族の本家である「花守」と、夏の本家とでは雲泥の差の開きがある。
従って、目の前に立つ美しい姫巫女さまは、桂にとって本来であれば雲の上の人なのだ。

けれど、初めて出会った時から心安く接してくれる少女に対し、
桂はあまりその身分の差という物を意識した事はなかった。
「様」をつけるのは、桂の中でもあくまでも形式的な事で、
理由の一つとして「とっても綺麗だから!」とかいう
自分なりの信念でもって、「様」をつけているらしい。

『りょう』というのは、この少女の通り名である。
力の強い術師となると、本来の名ではなく通り名を用いるのが通例であった。


いつもと同じように自分に対して
親しげな微笑みを浮かべる美しい姫巫女に、桂は改めて視線を移す。

独特な清涼感の篭もった、何もかもを見透かされてしまいそうな、
決して激しくはないが静かな確固たる力を持つその視線を、
同じだけの清浄な眼差しをもって真正面から受け止める。

じっとその顔を正面から見つめ、あんなに溌剌と屋敷内を探索していたのが嘘のように
もじもじと、頬を染め、後ろ手に隠したモノをぱっと少女の目の前に突き出した。

「あのねぇ…お土産があるんだよっ。はい!」

突然目の前に現れたそれは、長い間、自分の糧となる土と水から離れていたせいか
ややくったりとしていたが、桂はそれに気づかない様子で
にこにこと少女の次の言葉を待っている。

綾は、やや戸惑いながら、そうっとそれに手を伸ばした。

「…え、…わ、私に?」
「うん!」

桂が大事そうに両手で包んでいたそれを、綾も同じようにしてそっと両手で受け取る。
心なしか、桂の手のぬくもりまでも感じられるような気がした。

「あ…ありがと」
「うん!」

未だほんの少しだけ戸惑いを残したまま、それでも綾は笑顔でそれを胸に抱くようにすると、
桂はそれはそれは嬉しそうな笑顔でぱっと後ろを振り向く。
そこには、いつの間に現れたのか、やや疲れたような表情の白い鬼がぷかぷかと浮いていた。

「ほらっ、だから言ったじゃん、
 ちゃんと姫み…じゃない、りょうさまは喜んでくれるよって」
「へいへい」

浮いたままの楠は、気のせいではなくあからさまに疲れた様子で頷きを返しつつ、
ぽんぽんと軽く足で目の前の少年を蹴りながら「ババアが呼んでる」と連れて行った。

************

それを見送ってから、綾がその花を持って姉妹の所へ行くと、妹の方が
本当は根を残して周りの土ごと取ってきた方が
お花も長くもつんですけど、と少し残念そうにしながら、
それでも、とその花を挿すための小さな硝子の水差しを用意してくれた。

それらを持って部屋に戻ると、部屋の中央に大きな黒い獣が我が物顔で寝そべっていた。
闇にするりと溶け込んでしまいそうなほど、見事なまでに闇色の身体を持つその獣は、
だるそうに身体を起こし一度ぶるりと身震いすると、
ほんの一瞬の瞬きの間に褐色の肌の見目良い青年に変化する。

「なんだ? それ、花か?」
「うん、あの…。…桂が、私にだって」
「へー」

今は故あって綾の式となっている、かつて「漆黒の王」と呼ばれ
数多(あまた)の妖怪たちを震撼させた黒い妖は、
対して興味もなさそうにその花をチラッと見ると呆れた口調を隠そうともしなかった。

「しおれかかってるじゃねえか」
「でも、お花なんてもらったの、初めて」

くたりと首をかしげた花を、それでも綾は大事そうに水差しに生ける。

「桂、いい子だよね」
「はっ、アレでお前より年上だけどな」

春の姉妹にも「子犬みたいで可愛い」と評される桂は、(これもまた色々と事情があって)
綾より年少に見えるが、実際には成人していておかしく無い年齢だった。
人は、妖怪もだが、外見で判断するのは正しくないと分かってはいるのだが、
桂の場合は外見も中身もそう違いがない。
そのため、綾だけではなく姉妹たちも、自然と、小さな少年に対する対応になっていた。

「そうだけど。…何ていうか…透明な気がして」

桂は、綾の視線を真正面から受け止められるだけの澄んだ気の持ち主だが、
幼い頃から相当な辛苦を舐めてきているはずの少年なのだ。
それにしては荒んだ様子はカケラも感じられない。
よほど楠の育て方が良かったのか、桂は純粋で純真で、実に清らかな少年だった。

「そうか」
「うん」

綾は、そっとその花びらを撫でる。
水に挿したおかげか、もらった時より少し元気になっているようだった。
凛とした冬の空気の中で、その淡い色がほんのりとその冷たさを和らげている。

「…きれい」

はにかんだような微かな笑顔を見せる自らの主を、黒い青年は物珍しげに見つめる。
肉体的な疲れはその妖力を持って治癒してやる事ができても、精神的な疲れはそうはいかない。
ここのところ連日の修練で疲弊していた綾にとって、
桂のその土産は思わぬ癒しになったようであった。

久しぶりに歳相応の笑顔を浮かべる主に、
黒い青年―――綾には「クロ」と呼ばれている―――は、
そっと近づくとふわりと覗き込み、鋭い金の虹彩を和らげた。

「良かったな」

両の口端を軽くあげただけの表情だが、綾は、こんなにも優しい笑顔を他に知らない。

「うん」

綾だけが知る表情を浮かべこちらを見つめる式に、綾は、もう一度頷いた。



≪終わり≫